過去の私を抱きしめる
私にはかすかな記憶がある。
一般的には「持っていないコト」になっている記憶が。
幼いころの些細な出来事の記憶、そして、この体に入る前に持っていた感覚のような記憶も含まれていると思う。
それはかなり感覚的な物なので、もしかしたら「記憶がある」とは表現しない方が、いいかもしれない。体の奥の方に、確かに存在する何かと言った方が適当かもしれない。
それは集中してイマジネーションを働かせた時に、微かに聞こえる巻貝の中の波音みたいな物。
一部の霊能力者のようにハッキリと聞こえるわけでも、見えるわけでもないから質が悪い。だから、その感覚を長い間認めることはできなかった。「認めていなかった」という甘い規制ではなく。それを物心ついたころには感じていたのにも関わらず、つい最近まで、その感覚を拒絶し続けてきた。持ってはいけない感覚だと。
そうやって何十年も押し込められ、無視し続けられた、私の心は、ずっと静かに耐え続け、納得して全てを飲み込み、それらを消化しているかに見えた。耐えて、押し込めた物は消えてなくなったのだと思っていた。私が我慢して、その場の空気が軽くなるなら、それでいいと思っていたし、世の中の誰もが、そのように自分を犠牲にして、寄り添いあって、この世の中は成り立っていると思っていた。
そんな自己犠牲的な生き方と、自分の感じたことを否定し続けた結果、私の心身は悲鳴をあげ始め、小学校5年生の頃に胃痛と心気症という形で始まっていた。
消えたと思っていた、押し殺して蓋をした私の心や記憶は、全く消えてはいなかった。蓋の下でギュウギュウに押し込められ、無視され、早く出してとの願いは叶えられず、絶望し怒り狂っていたのかもしれない。
なのに、親も、私も、周りの大人も、その小さなサインに気が付く人は一切いなかった…
それらが20年以上、今も私を苦しめ続けている、頭痛、不定愁訴と気分の浮き沈みの原因だと思っている。
この物語を、そんな小さな心と体で、傷ついても報われなくても踏ん張って生き続けた、不器用で純粋で愛すべき、過去の小さな私と、世界のどこかで、そんな私と同じように踏ん張っている小さな誰かに捧げます。